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2018年5月17日 (木)

郷土史が面白い 6 関ヶ原合戦 小早川秀秋篇

 合戦後、前回書いた宇喜多秀家の所領だった岡山55万石をもらったのが、小早川秀秋だった。小早川秀秋は、東軍に寝返った「裏切り者」としてとかく評判が悪いが、秀吉に翻弄された可愛そうな若者だったと言うことも出来る。
 秀秋は、秀吉の正室・ねね(北政所)の兄の子、つまり秀吉の甥っ子だった。“本能寺の変”の年に生まれたというから、関ヶ原の時はまだなんと18歳!しかし、その歳ですでにアルコール中毒だったというのだ…。なぜか?
 そんな出自だったため、秀秋は3歳で秀吉の養子にされ10歳で中納言に任命されるなど、いずれは後継者とされてきた。ところが。秀頼が生まれて秀吉の態度が一変する。毛利の家臣(小早川家)の養子に出されたり、苦労した朝鮮出兵から帰ってくるなり領地替え(減俸)されたりと、苦汁をなめさせられる。秀吉やその参謀・三成への恨みもあったろう。一方、ねねや家康は気にかけてくれたらしい。その狭間での葛藤…。そりゃあ、酒にも走るよ。
 合戦前、両軍から色々働きかけがあったようだが、西軍として松尾山に陣取った秀秋は、戦いが始まっても戦況を見守り動かなかった。関ヶ原合戦って、「豊臣vs.徳川」ではなく、結局、秀吉家臣団の内輪もめ(実務派の石田三成・小西行長らvs.武闘派の福島正則・加藤清正ら)を家康が上手く利用したもの。色んな思惑が渦巻いていた。島津や毛利など一応参戦するが、やる気がなく様子見の大名たちもいた。秀秋も相当悩んだと思う。
 最終的に秀秋は(通説では家康に脅かされて)西軍の雄・大谷吉継の陣に襲いかかる。さらにそれが他の諸将の寝返りを誘発して、合戦の勝敗を決定付けたという。
 合戦後の秀秋は、家康から上記のように所領を与えられたが、なんと20歳の若さで急死してしまう!死因は発狂して自害説やアルコール依存症による病死説などがあるが、大谷吉継が秀秋に討たれる時「3年の内に呪い殺してやる!」と言ったそのとおりになった、と語り継がれている…。
 先日関ヶ原を訪れた際、松尾山が目に入った。関ヶ原の南西に位置する高さ300mほどの小山で、確かに戦場全体を見下ろせる、合戦を左右する絶好のロケーションだった。 

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